沿革

 寺院明細帳や下新川郡史稿や寺院規則の沿革によると、「祖先は松厳といって前は真言宗で魚津の鹿熊に住んでおり、寺号を常光寺といったが、応仁の乱に戦争のため焼かれて、石川県大聖寺へ寓居(かりずまい)し、文明年間に蓮如聖人が吉崎で布教された時、真宗に帰依し明譚という法名を貰い相変らず常光寺といった。

 現在常光寺は山号が鹿能山であること、常光寺が真宗になってから寺を開いた殿町に鹿熊姓の多くの門徒のあることなどからみても600年以前から鹿能にいたらしく真言宗であった。

 鹿熊在住のことは今寺に残る古い十二光仏名号の由来書に「文明5年(1473)夏当寺開基林義兵衛吉崎へ出て御弟子となって法名を宗誓とたまわったが宗誓は鹿熊在住なので・・・・… … 」という伝説があるのでもうなづける。

 当時松倉城下は金山もあり城下町として一時人口3万を数える繁栄ぶりであった。ところが椎名康胤の松倉城が落城した天正元年1157年頃から繁栄は魚津城へ移り、神社仏閣も大半が移転した。

 約30年前、前住職即慧が滑川市常光寺村当時町内会長の川口兵衛氏宅のすぐ前に地蔵堂がのこっており、その一画が昔の常光寺の跡だという。そこの畑から真言宗で礼拝の対象になる「阿字観」という石仏が出土した。御堂に安置されたものか墓石か分らないがここに寺のあったことは間違いなさそうである。

 常光寺は以前から滑川の常光寺部落に立山へお参りする人々を守る道しるべの一院をもち部落民の尊信を得ていたらしいが、落城の前後から世の乱れに無常を観し支配者としての仏教を離れて真の仏法として真宗に帰する為、滑川の一院を経て大聖寺へ移り法名や仏像を貰ったかと思われる。

 そして文明7年6月に朝日町殿町へ移り堂舎を経営し布教した処忽ち信徒が増え、数年でいくらかの壇家ができ、永禄元年(1558)5月小川洪水の際堂宇が流されたので泊町村の東北元屋敷でよい土地を見込み再建したが享保3年9月に現住所にうつり享和元年に火災に催って4月に改築してからは変っていない」と記してある。